「豊臣秀吉」と「北政所ねね」が
愛した祇園下河原

祇園下河原通(ぎおん しもがわらどおり)は、京都市東山区にある通りで、八坂神社の南側を南北に走っています。京都の伝統と文化を色濃く残すエリアの一つであり、歴史的な町並みや格式ある料亭・茶屋が軒を連ねています。
祇園下河原は「豊臣秀吉」と「北政所(豊臣秀吉の正室)ねね」と深いゆかりがあります。ねねは、秀吉の死後、京都に残り、仏教を深く信仰し出家して高台寺を創建しました。祇園下河原には彼女にまつわる伝説や歴史が残っており、芸術や文化が息づいています。茶道・建築・絵画・工芸といった日本の伝統芸術が大きく発展しました。
ねねが好んだ芸術の一つに日本舞踊や能楽があり、祇園下河原の周辺には今でも伝統的な舞台や劇場、そして舞妓や芸妓が活躍する場所が多く、当時の芸術的な雰囲気を感じることができます。ねねは祇園下河原を毎日歩いており、ねねの人柄を偲んで、地元の人々は彼女を「京の母」と呼び慕っていたといいます。
花街は芸術や文化で女性が活躍する空間で、祇園下河原には多くの商人や武士、文人などが集まり、商業的な交流が行われる場所となりました。舞妓や芸妓は舞台で舞踊や音楽を披露し、客と共にお座敷で楽しむ「お座敷遊び」が盛んに行われていました。これらは京都文化の象徴となっていきます。
また、祇園下河原を訪れる人々の間で俳句や和歌、書画がたしなまれ、多くの文人墨客も集いました。また、花街には、舞妓や芸妓を育てるための育成文化があり、彼女たちは京都の伝統文化を受け継ぐ重要な存在となりました。その一画を担ったのが、秀吉や、ねねが築いた祇園下河原の文化でした。
※芸妓(げいこ)は、舞や三味線、唄などの芸を極めた女性。 ※舞妓(まいこ)は、芸妓見習いで、華やかな着物と日本髪が特徴的。
祇園下河原の歴史

1. 江戸時代以前
下河原通は、もともと鴨川の氾濫により形成された土地で、「下河原」と呼ばれるようになりました。この地域は八坂神社(当時は祇園社)の門前町として栄え、多くの参拝者が訪れました。
2. 江戸時代(17~19世紀)
京都の花街(かがい)の一部として発展し、茶屋や遊郭が立ち並ぶようになりました。特に祇園町の発展とともに、舞妓や芸妓が活躍する華やかな文化が育まれました。
下河原通は八坂神社への参道の一部でもあり、商人や職人が集まり、飲食や土産物を扱う店も増えていきました。
3. 明治~昭和(19~20世紀)
明治時代以降、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の影響により周辺の寺院が衰退する一方、料亭や旅館が増え食文化の中心地の一つとなるなど、観光地としての魅力が増していきました。
昭和期に入ると、町家文化を活かした観光地としての色合いが強まり、京料理や京菓子の店も増えていきました。
4. 現在
伝統的な町並みが保存され、観光地としての人気が高まりました。昨今、アーティステックな飲食店や雑貨店が増え、海外からも注目を浴びています。
緑と水が織りなし、風が通る祇園下河原
祇園下河原の名所
- 八坂神社(厄除け・商売繁盛のご利益がある神社)
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八坂神社は、下河原通につながる、京都を代表する神社の一つです。祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)で、疫病退散や繁栄を祈願するための神社として古くから多くの信仰を集めています。祇園祭の中心となる神社で、毎年盛大な祭りが開催されます。*「おけら詣り」と商売繁盛 / 八坂神社では、大晦日に「おけら詣り」が行われます。「おけら火」という浄火を火縄に移し、それを持ち帰って新年の火種にすると商売繁盛や無病息災のご利益があるとされています。
- 高台寺(「豊臣秀吉」の正室「北政所ねね」が開いた寺院
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高台寺は、「北政所(豊臣秀吉の正室)ねね」が秀吉の菩提を弔うために出家し、1606年に創建した寺院です。寺内には、ねねの墓や秀吉の供養塔があり、歴史的にも重要な寺院です。また、庭園や茶室も美しく、四季折々の風景を楽しむことができます。ねねは日本文化(やまとごころ)を愛し、高台寺には、狩野派による襖絵(ふすまえ)や、蒔絵(まきえ)が置かれ、小堀遠州による枯山水の庭園もあり、日本庭園の美の粋を極めています。蒔絵は高台寺蒔絵という華やかな金蒔絵技法が発展しました。高台寺には「遺芳庵(いほうあん)」という茶室があり、桃山時代の茶道文化を今に伝えています。
- 石塀小路(風情ある小道)
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石塀小路は、祇園下河原通とつながる風情のある道です。この小路は石畳の道が特徴で、古き良き京都の町並みを感じさせます。周囲には茶屋や料亭が立ち並んでおり、祇園の伝統的な雰囲気を楽しむことができます。夜は、ライトアップされた石塀小路が幻想的な雰囲気を醸し出します。
- 八坂の塔(法観寺)(京都を象徴する五重塔)
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八坂の塔は、臨済宗建仁寺派の寺院です。歴史の古さは京都でも屈指で、聖徳太子によって建立されたとも伝えられています。八坂の塔は、永享12年(1440)に足利義教によって再建されたもの。他の伽藍は応仁の乱で全て焼失し、このシルエットの美しい五重塔だけが残りました。五重塔は初層内陣と二層目まで拝観することができ、内陣には五智如来が安置されています。
「豊臣秀吉」と「北政所ねね」
「豊臣秀吉(1537-1598)」は、安土桃山時代、農民から昇りつめ天下人となり、戦国時代を終結させて日本を統一した人物です。秀吉は京都を政治と文化の中心にしたため、祇園下河原とも深い関わりがありました。秀吉は京都を支配した後、祇園や八坂神社を大切にし、地元の神社や寺院への支援を行っています。秀吉は茶の湯を愛し、千利休を重用しました。1587年、秀吉は京都の北野天満宮で「北野大茶会」という大規模な茶会を開いており、その後、京都の各地に茶屋が増え、祇園下河原周辺も茶の湯文化が栄えました。秀吉の時代には能や狂言が庶民にも広まり、祇園の花街文化と結びつきました。「北政所ねね(1549-1624)」は秀吉の妻で、当時では珍しい恋愛結婚から始まり、政治、経済、教育面など幅広い領域で秀吉をサポートしました。秀吉と北政所ねねは、祇園下河原を始め、現在の京都の芸術、文化の礎を築いたと言えます。

祇園下河原ゆかりの人々
- 井原西鶴(1642-1693)
- 江戸時代の浮世草子作家で、『好色一代男』などを著した井原西鶴は、祇園の花街文化を題材にした作品を多く残しました。祇園下河原界隈の遊郭や茶屋文化にも詳しく、当時の風俗を知る上で貴重な資料となっています。
- 与謝蕪村(1716-1784)
- 江戸時代中期の俳人・画家である与謝蕪村は、祇園周辺の風景や花街の情景を詠んだ俳句を残しています。「春の夜や しのぶに似たる 別れ酒」(春の夜に、忍ぶ恋のような切ない別れの酒を飲む)
- 松尾芭蕉(1644年-1694年)
- 日本の代表的な俳人で、江戸時代に活躍しました。祇園下河原の花街で多くの俳句を詠み、芸妓たちとの交流を深めました。彼の俳句は、京都の自然や風景、人々との交流から多くのインスピレーションを得ています。
- 近松門左衛門(1653年-1724年)
- 江戸時代の浄瑠璃作家で、京都に住み祇園下河原周辺で活動していたことがありました。彼の作品には、京の町や祇園の花街を背景にしたものが多く、祇園下河原がその創作に大きな影響を与えたと考えられています。
- 加賀千代女(1703年-1775年)
- 江戸時代の女性俳人で、松尾芭蕉の門下に師事していました。彼女も祇園下河原で多くの俳句を詠みました。特に、彼女が詠んだ句には、京都の街並みや花街の情景が反映されています。
- 冷泉為村(1712年-1774年)
- 江戸時代中期の公家で、歌人としても活躍。高台寺周辺の風景を詠んだ歌を残しています。「さくら花 ちりかふ山の 夕暮れは 風よりほかに 知る人もなし」
(桜の花が舞い散る山の夕暮れ、その寂しさを知るのは吹く風だけである) - 竹内栖鳳(1864年-1942年)
- 京都画壇の巨匠で、祇園の芸妓や風景をテーマにした作品を多く残しています。
- 竹久夢二(1884年-1934年)
- 大正時代の画家で、彼の作品にはしばしば京都の風景や花街が描かれています。特に、祇園下河原は作品において重要な舞台として登場しています。京都文化や花街の美が色濃く反映されています。
- 谷崎潤一郎(1886年-1965年)
- 日本文化を愛した作家で、京都を舞台にした作品(細雪など)を執筆しました。祇園下河原の風情を愛した文化人の一人です。
- 川端康成 (1899年-1972年)
- 小説『古都』の舞台として、祇園やその周辺、祇園下河原が描かれています。
- 西郷隆盛や大久保利通など
- 明治維新を成し遂げた幕末の志士たちも京都に滞在していた際、祇園下河原周辺の茶屋などで意見交換や交流を深めていたと言われています。